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ポスト・ヒューマン・ボディーズ

ポスト・ヒューマン・ボディーズ

返却期限余裕ですぎてた。あわてて目を通す。
身体と○○の組み合わせをいくつも論じつつ、可変的な身体を論じるという、ダナ・ハラウェイ流の論考。筋肉、ゾンビ、鬼婆、毛、メディア、昆虫などが身体とどう関わっているかを章ごとにまとめている。ポスト・ヒューマン系の論考は、基本的に結論が予め予測できてしまうのだが(可変的な身体大絶賛)、そこまでのプロセスがねちねちしていて面白かった(ex.ジェット・コースターと北斗の拳)。

一点だけ変な点。筆者は、女性の身体が男性の視線に晒されてきたというお馴染みの論を出しつつ、そーゆー歴史がグロテスクな女性を排除させてきたんだよ、という流れで山姥を論じるのだが…。で、まぁたぶんその通りなんだろうが、そのあとで突然、こんな例が出てくる。

朝通勤電車に乗っているとき、ふと顔を上げて車内を見回してみてぞっとすることがないだろうか。

これで一頃大流行したヤマンバ女子高生のグロテスクさを論じるかと思いきや、そうではない。電車のなかにいる男性サラリーマンが同じスーツ着ている姿が同質化=近代化の象徴だということをどうも言いたいらしいのだ。それで筆者は、思わずこんな感慨にふけってしまう。

車内に一人でも女性がいると、そこに奇妙なまでの安堵感が生じる。(115)

つまり、男性=同質化した空間に、規範から逸脱する女性が混じると素晴しいと言ってしまっているのだが、これは都合が良すぎるだろういくらなんでも。これ、安堵を感じる場か??
まず言っておくと、ここで筆者が女性に視線を向けてわざわざ「安堵」を感じている時点で、批判した近代的な視線の構造を自分で繰り返している(おいおいそれを批判するんじゃなかったのかよ…)。この視線、まだ続く。男性スーツ姿が画一的である一方、そうした近代の身体規律から逸脱する会社勤めの女性の服装は、

つねに身体の一部を露出するものとなっていないだろうか。

文脈ずらせば何でも言って良いのだろうか。スーツ姿の男性ばかりで同質化した車内空間は「エントロピー最大状態である」とかカッコつける前に、筆者自身が自らが視線の対象に抱いた欲望を自己批判するくらいの芸はあってもいいんじゃなだろうか。筆者はこーゆー自分の視線を正当化したいだけなのだろうか。
それと戻って、「安堵感が生じる」と一般化しちゃわないでくださいよ。筆者は安堵を感じても、それが場全体を支配する空気であると言い切ってしまえる根拠はどこにあるのですか。男性ばかりの車内に一人だけいる女性にとってみれば、残りの男性乗客すべての視線に猛烈に晒されている緊急事態であって、筆者が言うような「近代の同質性に陥穽をあける」的なノンキな情況ではないはずだと私は思いますよ。

いくらなんでもこの―わかりやすくしたいがために持ち出してしまった―例はフェミ・コード抵触だろう。