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(見えない)欲望へ向けて―クィア批評との対話

(見えない)欲望へ向けて―クィア批評との対話

「序章」「あとがき」「第一部」
あとから読み直して考え込んでしまうこと必定の箇所をいくつか引用。

クィア批評は明らかに、文学的な感受性を脱政治化することに成功した。しかしその文学的な感受性は、ごく保守的なものにいつでもなりうるし、だからこそ制度として強さを発揮している。(47)

しばしば語られないですまされてしまうのは、ポストコロニアルや新歴史主義的な視点からのイデオロギー分析が、倫理的に真摯で政治的に正当な営みであると同時に、最高の知的興奮をもたらす麻薬でもあることだ。「政治的読解」と「文学の喜び」とが対立しているかのような構図は、政治的読解自体の魅惑を認めようとしない、いささか硬化した態度からきているのではないだろうか。(224)

「第二部」

[E.M.]フォースターを「生前ゲイであった作家」として論じようとするわれわれも、本質主義を完全に退けているはずはない。彼の(特定の)性的な秘密を特権化するところから出発するフォースターのクィア的解釈は、いつのまにか作家の主張にとりこまれて、(不特定の)秘密の欲望を、どの主体にもみられる核として前提してしまっている。(129)