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お返事

先日書いたエントリーに批評をいただいた。コメント欄封鎖で、どうにもこうにも反論しようがないので、トラバってここに書く。

誰も映画『告発の行方』を「異性愛を描いた映画」とは呼びませんよね。「異性愛を否定する映画」とも呼ばない。あれはレイプを、つまり性暴力を描いた映画であって、加害者が異性愛者であることはテーマと関係がないからです。
今回の中学生日記もそれと同じ。加害者のセクシュアリティはおそらく同性愛者または両性愛者なのでしょうが、それは別に番組の主題ではないし、同性愛そのものを否定する内容でもないということだと思います。というわけで、NHKの言うことにはちゃんと筋が通ってるとあたしは思いました。同性愛者が登場すれば即「同性愛を描いた作品」でなければならないとか、同性愛がテーマでなければ全キャラがノンケのはずだっていうのは偏見だよー。
http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20060704

「テーマと関係がない」という一文が妙に引っかかる。そもそも議論の出発点が共有されていないように見受けられる。これが共有されない限り、「偏見」という言葉が私に向かって発せられると思うので、多少長くなるが返答しておく。


NHKは今回「男性も受ける性暴力」というテーマを掲げた。掲げられたテーマに奉仕するのがテクストだと批評者は考えているらしい。ある社会的事象、統計、作者の体験・自伝なりが、テクストに滞りなく書き込まれ、何の矛盾もなく機能するとしたら、テクストは単純に社会の「反映」となる。テクストのどこをどう読んでも、<社会>の金太郎飴にしか見えない(見ようとしない)のが反映論の真骨頂である。


今回いただいた批評が陥っているのは、NHKが用意した「テーマ」を鵜呑みにしていることからも分かるように、素朴な反映論である。テーマ批評は、ある一群の似たテーマを論じた小説なりTV番組なり映画なりをカテゴリー化して、オタッキーに満足するために存在しているのではない(ただしそう誤解している人間は多い)。あるテーマと別のテーマがどのようにくっつき、反発し、絡まりあっているかを、見つめるために一応の基準として「テーマ」や「ジャンル」は設けられているのである。「男性も受ける性暴力」がテーマであるとNHKがラベリングしたとき、テクスト論(と、それを選ぶ私)は「男性も受ける性暴力」を問題化しつつも、同時にそのテーマがテクスト内の別のテーマとどう関係性を持っているかを、また持たざるをえないのかに目を向けるのである。


私が異性愛・同性愛のコードを持ち込んだのは、テクスト内におけるテーマの隣接性を見つめる作業が重要だと確信を持っているからである。そして、そのような解釈を誘発させる記号はテクスト内にあったからである(そこは批評者もご理解いただけると思う)。テクスト内だけでなく、NHKはネット上に「この番組が同性愛の否定を目的としたのではない」という趣旨の断り書きを入れていた。なぜ断ったのか?同性愛を否定的に解釈するような社会的コードがテクストの中に織り込まれているからではないか。だとしたら、性暴力と同時に同性愛のコードが登場していること自体、問題化しなくていいのか(←批評者はここでも「関係ない」という言葉を使うのだろうか)。そもそも、番組が異性愛と同性愛のコードをたぶんに含みながら、性暴力の「実態」へと物語を進行させていったことは明らかではないか。


私はセクシュアリティのコードが介在せざるをえない情況がテクスト内で発生していると提起したいのである。こうしたテクスト内相互の多様な関係性を度外視して、たんにNHKの掲げたテーマと批評者の番組理想像が合致しただけで番組の出来の優劣をつけるのが批評なのだとしたら、そのような批評態度は少なくとも私とは別のものである。