特集「精読と英文学研究」
『文化と精読―新しい文学入門』にあてつけたのか、はたまた『本の読み方 スロー・リーディングの実践 (PHP新書)』との同時多発現象なのか。とある本で、柴田元幸が「翻訳しないと英語が理解できない」(大意)と述べていたように、精読し解釈し訳語を作るという作業は、果てしなく知性と労力を要する作業である。本特集は、ところ変われば訳語も変わるといった視点から翻訳語の歴史性を問いたり、ド・マン流のアクロバティックな脱構築的読解が精読の賜物だと紹介しつつ、高度情報社会における「速く読めればいい」という信仰に異議を唱える。情報だけを瞬時に引き出す速読とは、一つの記号に一つの超越的意味があるという暗黙の前提なくしては成立しない。これは私たちが何度となく批判・批評しようとしてきた態度ではなかったか。本特集は、読むことの苦しみと楽しみを我々に再確認させてくれるものである。とは言え、私はまだこの雑誌を手にすらしていないし、いつ立ち読みするのかの目処も立っていないし、今はそれどころではない。特集タイトルから妄想しただけである。
解釈に関して、石原千秋と斎藤美奈子が『ユリイカ』の対談の中で…[数日後に、気が向いたら書く]
あとその時に、速読の歴史について「ネットで」調べる(備忘録)。遥か彼方に聞いた話によると、合衆国大統領が読書をするとき、米国アカデミズム流の速読方法を実践しているらしい。いわゆるパラグラフ・ライティングを逆手に取った読み方であることは間違いない。情報処理としてのパラグラフ・ライティングが開発されたのは第二次世界大戦中の合衆国だから、速読の開発もその頃だろうか。世間では、フォト・リーディングとかいうページを開いただけで全文が読めるという神業を持った人間もいるらしいのだが、そのメソッドはどこから来ているのだろうか。